ジョニーデップ
"ジョニー"ジョン・クリストファー・デップ2世(JohnChristopher"Johnny"Depp Ⅱ、1963年6月9日)はアメリカ合衆国出身の俳優、プロデューサー、ミュージシャン。
世界最大の映画スターの1人とされている。デップが出演した映画はアメリカの興行収入が37億ドル以上、世界では100億ドル以上の興行収入を記録しており、世界で10番目に高い興行収入を誇る俳優である。2012年のギネス世界記録には世界で最も高額な俳優として7500万ドルの収入を記録している。デップは友人であり、監督、プロデューサーのティム・バートンと8本の映画で共演している。2015年にはディズニー・レジェンドとして殿堂入りした。デップは俳優業の他にミュージシャンとしても活躍している。アリス・クーパーやジョー・ペリーと共にロックのスーパーグループ「ハリウッド・ヴァンパイアーズ」を結成するなど、数々の音楽グループに出演している。日本では「ジョニデ」などと略されることもある。
★生い立ち
ケンタッキー州オーエンズボロにて、土木作業員の父ジョン・クリストファー・デップ(1938〜)とウェイトレスの母ベティ・スー・パーマー(1935〜2016)との間に生まれる。4人兄弟の末っ子で、9歳上の兄ダン、7歳上の姉デビーと2歳上の姉クリスティーがいる。フランス人、アイルランド人、ドイツ人、チェルキー族の血を引く。クリーク族の血を引いているとも言われている。
家庭の事情で頻繁に転居を繰り返し、7歳の時にフロリダ州ミラマーに定住。1978年に両親が離婚。子ども時代はストレスの為に自傷行為を繰り返したという。12歳でお酒を飲み始め、14歳の頃からドラッグに手を染めるなど、どん底とも言える青年時代を送った。しかし、親友との死別をきっかけに足を洗うことを決意。16歳の時に高校を中退し、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。幼少期からの経験により、特に初期の映画作品にはドラッグをテーマに扱ったり少し変わった性格の変人を演じたりすることが多かった。
★寄付、逸話
子ども思いで知られるデップは、2008年に娘のリリー・ローズが腎臓病で入院したロンドンのグレート・オーモンド・ストリート病院をひそかに訪れ、「娘の命を救ってくれたお礼」として100万ポンド(日本円でおよそ2億900万円)を寄付した。さらに、娘が助かったことに感激して2007年11月には同病院を訪問し、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウの衣装を着て、患者の子どもたちにおとぎ話を聞かせるサプライズも起こしている。
麻雀
麻雀(マージャン、英語:Mahjong)はテーブルゲームの一種。牌を使い、原則として4人で行われる。中国を起源とし、世界中でも親しまれている。
起源には諸説がある。紀元前6世紀頃、孔子が発明したという説もあるが有力ではない。
最も有力な説は中国・清の同治年間(1862年-1874年)に寧波の陳魚門が12世紀以前に存在した「葉子(馬弔・マーディアオ)というカードゲームと明代(1368-1644年)以前から存在した「骨牌」というドミノのような遊戯を合わせて「麻雀」を完成させたとするものである。
なお、葉子は欧州に伝わり、トランプとなったとも言われている。
語源については、上記の「馬弔(マーディアオ)」が日本に転訛して「麻雀(マージャン)」となったとされている。
1949年に中華人民共和国政府によって一旦、全てのギャンブルと共に禁止された。しかし、文化大革命終結後の改革開放に伴ってギャンブルでない麻雀は許されるようになり、1985年には禁止令が解除された。
日本人で初めて麻雀に言及したのはおそらく夏目漱石で、「満韓ところどころ」(1909年)に大連での見聞として「四人で博奕を打っていた。厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当たる札を五六十枚ほど四人で分けて、それを色々に並べかえて勝負を決していた」とある。実際の牌が日本に伝わったのは明治末期であって、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取り上げられるようになった。文藝春秋社では自ら麻雀牌を販売していた。
1929年3月21日、東京で初の麻雀全国大会が開かれ、350人が参加した。1930年7月10日、警視庁は麻雀屋の新設を禁止した(1930年5月現在937店)。
日中戦争開戦前の頃には東京都内に2000件の麻雀クラブがあったが、戦時色が濃くなるにつれて麻雀も下火とならざるを得なくなり、1942年の時点では230軒余と激減した。業者の団体は警視庁の指導に基づき同年9月1日より「麻雀」を「卓技」と名称を改め、東京卓技商業報国会を結成。健全娯楽化を目指した。
終戦後、再び麻雀は流行し始め、「途中リーチ」(現在の立直)・ドラなどを含めた新ルールが取り入れられるようになり、アレンジを加えられた日本式の麻雀(リーチ麻雀)が主流を占めるようになった。
バレーボール
バレーボール(英:volleyball)は
ネット越しにボールを打ち合う競技。
1チーム6人で行われる。日本語や漢字圏では
排球(はいきゅう)とされている。
バレーボールは1895年、バスケットボールに
向かない子ども、女性、高齢者も気軽に楽しめる
室内スポーツとしてアメリカ合衆国マサチューセッツ州ホリヨーク(Holyoke)のYMCAで当時25歳の
アスレティックディレクター
ウィリアム・G・モーガンによって考案された。
発祥の日は特定されていないが、元になった
「ミントン」が1895年の夏にYMCAキャンプ研修会で初めて紹介されていること、モーガンのホリヨーク着任が長男ルフス誕生(8月29日)より後
とされていること、モーガンのホリヨークへの転任が報じられているのが1895年10月のYMCA会報であること、10月23日の地元紙「ホリヨーク・デイリー・エクスプレス」にはモーガンの活動のことが
掲載されていること積雪により屋外で野球や
フットボールがプレー出来ない「冬季向け」の
ゲームとして考案されたことから、秋から冬と
考えられている。
当初の名称はMintonette(ミントネット)。
これは1895年、インドに派遣されていた
マッコノーイによって紹介された「ミントン」
(羽毛球を使った5人制のバドミントン)に由来する。
1896年7月、モーガンはこの新ゲームを
スプリングフィールドで開催された
YMCA体育指導者会議の際に公開した。
モーガンは当初このゲームをミントネット
(Mintonette、ミントンもどき)と名付けたが
後にハルステッド(YMCAトレーニングスクール教官)の提案を受け、名称をバレー・ボール
(ボレー・ボール、volley ball)に改めた。
バレーボールのバレーというのはテニスのボレー
(ボールを地面につく前に打ち返すこと)から来ている。1952年に現在のようにバレーボール(volleyball)
と1語で表すようになった。
ネットの高さは6フィート6インチ(198cm)だったが
1900年に7フィート6インチ(229cm)となった。
バレーボールは各地に点在するYMCAを通じて
アメリカ全土に広まっていき、1900年にカナダ、
1912年、アメリカでローテーションルールが導入された。
バレーボールの歴史において最大無二のルール変更は1912年にフィリピンで導入された
「3回以内に相手コートに返球」ルールであり
これによりバレーボールはレクリエーションから
競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも1917年、フィリピンに派遣されていた
E.ブラウンにより提案され、1922年までには導入された。また、今日あらゆるチームが実施している
「セット&スパイク」戦術は1916年にフィリピンで初めて実行された。